スタジオからの帰り道、家の近所で倒れている人がいた。六十は過ぎているであろう男性。酔っ払いが寝ている光景はちらほら見かける地域なので、その感じかなぁと思い一度は通り過ぎたが、そういう雰囲気でもなさそうなので、戻って大丈夫ですが声をかけてみた。

歩いてたらなんか倒れちゃって起き上がれなくて、という。目元は転んだ時の擦り傷で少し出血していた。若干ろれつも回っていない。

救急車を呼ぶかとたずねたが、とりあえず抱えて立たせてほしいというので、脇をもって手伝ってあげた。家は近所らしく、その近くまで付き添ったが、何とか歩けるようになったので、ここで大丈夫というので、その場を離れた。

少し心配になって、また後から様子を伺いに戻ってみると、きた道を逆行していたのがちらっと見えた。一度別れた手前、また声を掛けるのも仰々しいかと思い、それ以上は関わらなかった。

この自分の行動には多少の善意というのも含まれているだろう。ただ、誘引として強く自覚したのは非日常の体験や未知に遭遇した面白さかもしれない。全く引け目なしに、むしろありがたがれる立場で、普段と違うことができるのだからそれは面白いだろう、みたいなことかな。

結果としてはじいさんの身体を引っ張り上げた

だけのことなのだけど。

 

 

背広や電車が気に食わないし、人に何か評価されたり管理されたりどうのこうの言われるのも嫌だなぁと思う。少なくともそれを今後ずっと続けていくっていうのは考えられない。

自営のある種の自由さに述べたページとして下記があった。

http://www.cheesemarket.jp/index2.html

 

諸々の生活費、ランニングコストをまかなうため、妥協できる仕事で最低の金銭はカバーしつつ、

自分が面白いと思えることに時間を割いていけるようにしたいとどんどんと思う。最終的には後者だけでいけるような。

FOBなら自分でもいけるんじゃないかなぁ。

 

 

リハだったのたが、まあ楽しい半分、悲しさ半分な気持ち。悲しさは自分や周りの能力に今天井が見えているから。そこを破りたい。

自分は自分より弱い立場の人には、自分なりの気遣いを持って接するか、あまり関心がないと関わりを持たないようにする感じになる。

自分より強い立場の人には、どうかと考えると、基本的に媚びるようなことができないっぽい。何か態度を変えたりしたくない気持ちがある。

 

ありがたいことに、マリの太鼓マスターの演奏に触れる機会を持てているが、聴くたびに新鮮な驚きや嬉しさがある。飽きない感じもある。外さんにもそういう印象を受けるが、あれくらいのレベルの音が出せる人物になりたい。

 

元々、氏は多分ツアーで日本に来て、日本の人と結婚して、もう長い間拠点を置いているみたい。素晴らしい演奏をするが、日本ではゴミ回収の仕事を主として生計を立てている。日本に来たばかりの頃は色々と大変だったのではないかなと想像する。

熊本のギニアの人も工事現場で週一日しか休みがない状態で長く働いていたとか。

 

日本で働く在日外国人のことを何となしに調べると下記のようなページがあった。

https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?action=multidatabase_action_main_filedownload&download_flag=1&upload_id=23503&metadata_id=601

 

ページ内の下記書籍など結構興味がある。

なぜコリアンは大久保に集まってくるのか -在日コリアンの経済学-

 

中国人やベトナム、マリ人などもそれぞれ特定地域でコミュニティを形成していると聞く。外からはパッとはわからないのだが、繋がりを見つけたり、保つために使用しているメッセージアプリなども異なるのだろう。

その形成の過程や進行のあり方は興味がある。

前に歌い手のデータの違法売買の様子について調べたことがあったが、ツイッターやメルカリなどの知っているアプリの中で、全く知らない大きなコミュニティや共通言語が形成されていることに驚いたが、その感覚と似ているかもしれない。

 

最近は日記だったり文章を書くサイトとして、noteが一番使われているような印象を受けるが、あれはフォローフォロワーが付随している点が、自分にとってはよくないと思える。

集団で集まってパソコンに向かってカタカタやっている姿というのが根本的に気持ちが悪いと思ってしまう。事務員的な姿など。

非日常の浮ついた気分から戻るためのスイッチにはなるなと感じたことはある

 

流動的な現場仕事のほうが息が詰まる感じがなくていい。

 

29日から4日まで毎日スタジオ入っていたが、それだけでも結構楽しかった。3日はちょっとだれた感じがあったが。


グリップの感覚について、スティックを握った時に楕円のような感触を覚えるようになった。今まではそんなことはなかったので、何でだろうと思う。関係があるかはわからないが、手の速さがワンランク上がったっぽい。

 

創作物とか創造物について、完成品を見ると、すごいなぁと思うと同時に、こんなの自分にはできないと思うことがある。知人のなんて事のない文章にすら感じる。だがこうして自分で文章を打ってみると何だかんだ積み重なって、自分も考えを作り上げられるんだなと視覚できる、残る形で見えるので少し安心する。しょぼいことでも、方向性を持って積み重ねていくと後々で他の人にはすぐにはたどり着けないところにいけると思う。

 

デスクオーガナイザーという言葉を知った。機能美が心をくすぐる感じがある。

 

図書館に行って適当な新書を借りた。労働関係のものに目がいく。

 

アフリカ関係のビジネスのことを簡単にネットで調べていたが、煌びやかな経歴や能力の方々ばかりが目につく。それと比較して自分は何の能力もないなと勝手に落ち込む。

社会起業家とか、そういう大仰な使命感を持った風の人が多い。

自分の興味はそういうとこにはない。あの音楽というかリズムへの魅力にしか今はない。

ただまた一方で自分と同じか若い世代の凄い音を出して活躍している人たちと比べてまた勝手に落ち込む。

 

ITへの無知への恐怖から今更ながらプロゲートを始めてみた。

 

自分有形の物に対してはあまり欲がない方かなと思う。保管するようなスペースとお金がたくさんあれば、そうでないのかもしれないが、あるとむしろ邪魔だなと思ったりする。保有するのも煩わしいというか。

一方で無形のサービスに対しては、少なくとも自己の中ではそれなりにお金を使っている方か。ただそれも、ほとんど音楽の体験に関する物だが。

生活のための金銭を工面するやり方は何が楽しくできるのだろうと考えるが、最近は特に物事への関心が低いためあまり思い浮かばない。

 

この媒体では、日々の記録というより、もうちょっと固定されたテーマや考えについて個別にトピックを立てて深掘りしていくような形で使っていた傾向があったが、特にそういう風に限定することもないかと思った。

 

写真を見るのはとても好きだが、撮られることや撮影すること、撮影してる人は苦手だ。

撮られることに関しては、自分が何か物事をしている姿を撮られるのはまぁいいのだが、カメラに意識を向けて何かポーズをとったり表情を作ったりするのが苦手。

撮影することとしてる人については、その姿が滑稽というか隙だらけに見えてしまうことがある。今を生きていない感じというか。自撮り女子がレンズに向かって表情を作っているとき、それを側から見られているときの様子はどうも美しくないのだが、そこの意識のチグハグさとか。お前にみられたってどうでもいいよ、というのもあるかもだけど。

 

デジタル関係のものを触っていると本当に時間が無くなるのがあっという間に感じられる。そのデジタル関係で触れているのも、他愛もないマンガだったりSNSの動画だったりすることが多い。そういう日々が続いていて、本当にふやけてしまっている感覚がある。デジタルデトックスという言葉があるが、以前に少しだけ試したところ明らかに生活の時間の長さを感じたら。認知のクリアさというのも感じた。

 

日々の記録という形でこうして文字にしていくだけでも頭使ったような感じになってくる。どういう表現が適切なのか、思っていることをどう書いたらいいものかを考えることが、今の生活の中であまりない。

あることはあるが、仕事のフォーマットの中なので、厳密さ簡潔さが最優先で、もっと微妙なニュアンスや思いの伝え方を考えるスペースは多くはない。

 

年末年始の休みで、29から今日までずっとスタジオに通った。最近はやりたいことやできることも多くなってきてますます楽しく、かつ時間がないと感じる。楽しいことは色々あるかもしれんが、自分はやっぱり音楽が好きっぽいし、段々それ以外のことが考えられなくなってきている気がするし、調子のいい日ならずっと楽器を触っていられる気がする。

そんなに好きなら、それを仕事にするとしたらどうなのかと考え、本当につい先ほど楽器講師の求人など見ていた。初心者の人とかになら教えられるかもしれんが。ただ、教室みたいなのはあまり好きじゃない。これについてはもっと具体的に考えたいが、子どもであれば本人というよりその親御の存在がうすらみえて、子どもが主体的であるのかが疑問に思えてしまうことがある。成人にしても、自分ごときが何を伝えられるのかとか思っちゃいそう。

まちやのクラスで微かに感じるそのへんへのモヤモヤもきちんと言葉にしたら、何か参考になる。

 

年末年始だが、特別なことはしていない。生活のリズムが崩れるのはあまり好きでないと最近自覚した。よっぽど楽しい飲み会やイベント、旅行は除く。それを言うとみんなそうかな。

ただ、食事とか最近はあまり外食を挟みたくないな。

晦日に年越しの飲み会を誘われ、行く気はあったのだが、その時の体力、物理的な距離や会場のタバコくささ、翌日のダメージなどを考えると段々とその気持ちが萎んでしまった。結局布団に入るとそこから抜け出せずそのまま寝てしまった。ちょっともったいなかったかなぁ。

 

今年は下記を気をつけたい

デジタル関係への向き合い方、なるべく減らす

特にSNS

自分が責任を負う形での表現の発信、自分が人に発信したいのは楽器のことくらいしかないか?

一日一ページでも良いので活字を読む

継続して身体のトレーニングをする

 

人生で初めて抱負のようなものを立てたかもしれない。

2023の愚痴について

通勤をするとき、駅構内の長い一本道を黒い通勤服の人らとザッザッと歩いていく様はやっぱり気持ちが悪いし、その場に混ざっている自分が嫌だと思ってしまう。

 

組織の中にいると、上下関係が生まれるのは仕方ないが、そこはある程度風通しが良い雰囲気であってほしい。評価についても相互に行われるものだという認識は根底に残してほしい。一方的なことというのは、ほとんどの物事において嫌いなのだと思った。

 

システムについて。自然のようなもともと大きくは抗えないものは別だが、人が構築していったようなシステムにかなり面倒を感じる。税や貿易関係のことなど、タイトかつ調整や自分がコントロールできない部分も多く、中々心配が絶えない。

人が複層的に多く関わる物事は、思ったよりも大変であった。既にわかりきっていることを何度も確認したり、わざわざ手間をかけて文章に示したりなど。

 

そのへんに対する抜けや適当さは、思い返すと小学校くらいからずっとあるかも。でもやっぱりタイトで細かいことは向いていない、好きじゃないかもしれない。

 

愚痴を言うことにについてあまりなかった。特に人前で言うことはほとんどないが、今は文章として書きたいくらいに内側からは浮かんでくる。

紙屑のようなものはどこに置いても似合う、ある意味どこでも置ける

ただ角張った工業製品のようなものはきちっとした置き方でないと何かずれてるというように思われる。カチッとしかいれない

音楽にも通ずる部分がある