フルで働くとすると八時間拘束で、プラス移動を含めると10時間くらいの時間が拘束されている。

これだとやはり何かをやるのは時間的にも体力的にも厳しいと感じた。

 

文章を読んだり、何か集中して物事にあたるのが中々できなくなってきていると感じている。そこの気力を取り戻したい。筋トレ結構大事かな。

 

商社不要論みたいなの聞いたことがある。国内に限定するとわからないが、国際間だと、やはりそこを仲介する立場の人がいないと成り立たせるのは難しい。できることはできるかもしれないが、

仕事は結構忙しく、集中しているとあっという間に時間が経ってしまう。

夢中になっているという意味では良いと思うが、そこで時間を過ごした先を想像すると何があるのかと思う。

 

今は楽しくなく、その先も楽しくなさそうであれば、

今は楽しく、その先はわからんほうにかけるのもあり?

多摩とか埼玉の方とかの中古戸建てを500-600万で一括で購入することを考えている。

 

 

外とぱーさんが対バンしていた。見たかったのもあるし、置いておきぼられたとか嫉妬とかもある。前に誘って無視されているってものあるし。

何度も書いているが、結局悩みとかネガな感情は楽器や音楽に起因しているので、そこを克服するには練習して認められるしかないように思う。

 

そこまで深刻ではないが、すぎもに少し強くあたってしまいかねない兆候がある。できないことが多いことに対して。

自分の優しさとか余裕の限界を感じる。

 

 

 

パルチドの4 3と3 4をそれぞれ、いちにさんよんはくの位置からスタートしてみる。

 

サバールの感じに似ている。

 

どぅんどぅん ててんててん ごみたいになってるやつ

うらきんたうらきんた BTT-S

にあいこーる BT-T -S--

 

 

TTT -TT TTT -TT

 

音楽にはなんだかんだ救われている

 

もしも自分が楽器などやらずに、音楽に関わっていない生活を送っていたとして、どんな風になっていたのか。

結構今よりもまともな雰囲気の人間になっていたのではないかとも今までで数回考えたことはある。

ただ、10代とかあるいは今など気持ちしんどめな時に何とか前向きであれているのは音楽をやっているからだとも思う。自分の音楽の力を育てるのは無限っちゃ無限だし。本当に死ぬその時まで尻上がり性がわりと保たれる領域というのがありがたい。

バンドなんかも細々だが尻上がり性を持っているし。

 

最近買った高いものと欲

ここ一年で買った高いものは何か、という話になった。有形のものに限るという条件。その時は夏頃に買った三千円くらいのポロシャツしか思い浮かばなかった。ロシア帽が五千円くらいだったかもと後から思ったが。

こういう話をすると自分が有形の財産についてはほとんど興味がないのではないかと自覚してきた。

 

例えば楽器などにしても、まあ色々と高いものとか良いものはあってそれを揃えて演奏するのは楽しいだろうが、結局演奏者自身の実力に沿った音しか出ないしな。

家、家具などは好きだが所有するとなると煩わしさを感じてしまうかも

 

承認欲求はかなりあると思う。物欲について、本当に捻り出すとしたら、服は小綺麗なものを着たいと思うが、それは衣服が人からの判断に用いられるかなり初期段階のマークになるからだと思う。

もっと長期的に見たら家を持って、家庭を持って、立派な職に勤めて、というのがそろって承認されたという気持ちになるのだろうか。

ただ、そこまでは想像がつかない。

 

今特にあるのは楽器の腕を上達させて、なるべく色んな人に認められたいとか、関わりたいとかそういう欲求かな。

 

 

愚痴を言いながらも働く人たちは、何が必要だから働いているのだろうか。

 

 

遊びの原則

遊びは楽しくなければならない

遊びはそれ自体が目的であるべきで、何か他の目的(たとえば、文字を読むため、英語を話せるようになるため)であってはならない

遊びは遊ぶ人の自発的な選択によるものでなければならない

遊びは遊ぶ人が能動的に関わらなければならない。遊ばせてもらっていたら遊びではない。

遊びは現実から離れたもので、演技のようなものである。子どもが何かのふりをしていたらそれは遊びである。

 

今井むつみ 学びとは何かという新書で、キャシーハーシュパセクとロバータゴリンコフが提唱したというもの。この本はななめ読みしてしまったが、また読みたい