アフリカのどこかの小村で、子どもらが遊びとして音楽を奏でる。それはまず一番に自分のために、それと次か同じくらいに、一緒に奏でる人や踊る人や聴く人らのために演奏すると思う。小さい範囲で自分らの音を楽しんで感動していることが良い。

なんでそれを良いと思うのだろう?

多分、音楽に純粋なように見えるからか。

 

キューバのホテルの箱で、あるバンドのピアニストが演奏が進むにつれ、汗をかき高揚していくのが感じられた。身悶えながら鍵盤を弾いていた。音楽の衝動的、根元的、肉体的な作用を演者自身が一番に受けているようにみえると、今その時の光景をおぼろげに頭に写した映像を見て感じた。

 

 

 

逆に日本の集合住宅が立ち並ぶ、その中の一室で、一人きりで、こもりきりで音楽を作ってる人、練習してる人がいる。普段は何をやってるの。いつもに何を感じているの。どういう思いで音を出すの。

 

なんかやるせなくて、自分も周りの人も幸せなのかはわからない。そういう気持ちが外気に剥き出しになっているとやるせなさや虚ろさが、強く感じられる。ただ、それに呼応する音楽があると、音楽が空間を満たす液体か気体のように、その気持ちを包む感じがある。やるせなさとか虚ろさとかは、普通の日常では表に出てこず、自分が勝手に感じてしまうものだが、そういう感情をまとった音がいると、共感してくれるものがあるとか、そういう感情を自分が抱いていても、不自然、不整合でなくしてくれるのかもしれない。それはその音が鳴っているその空間のみに作用することに思えるが。

 

ギニアビサウにも、夜中までずっと練習してる人がいる。トタンを伝って弦の音が感じられる。こちらはもう眠いが、向こうはずっと弾いている。